カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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ヨシムラ

大西部テストと私

①霧中ドライブなど

私の着任後間もない2月初旬金曜日の午後、仕事を済ませた私たちは、シカゴからオクラホマ州タルサへと向かった。百合草激励のためである。仕事を片付けたうえで、週末を利用しての激励行だった。貴重な外貨を使い、カワサキの浮沈をになっている緊張感から、たとえテスト激励のためであっても、そんなことにウィークデイを当てることは許されないという思いがあったのだった。先輩駐在員の田崎雅元がハンドルを握っていた。シカゴ→タルサ間767マイル=1,227km。なんとかその夜のうちに着くつもりだったのだが、厳冬の高速道路はすさまじい霧で全然前方が見えない。白い車線分離帯を見て走るしかなく、途中1泊して着いたのは翌土曜日の昼過ぎだった。着任後1ヶ月足らずにして、アメリカ大陸の広大さとそこでのドライブの怖さを実感した次第だった。

レース場でのテストを見物し、夜、地元ディーラーの自宅へ招かれた。私としては初めて目にするアメリカの家庭である。酒がまわり、勧められるまま唄を歌うことになった。オクラホマ州はフォスターが愛した南部ではないけど、アメリカの田舎であるには違いない。思いを込めて“オールド・ブラック・ジョー”を熱唱したのだが、家族は、「それは一体何の歌だい?」と怪訝な顔。私の英語がでたらめなこともあったのだろう。彼らはフォスターも“オールド・ブラック・ジョー”も知らず、
「“スキヤキ”をやれ」と言う。当時アメリカ・ヒットチャートの上位を占めていた坂本九の“上を向いて歩こう”である。

日本とアメリカの音楽教育の差など考えさせられた次第だった。

②シカゴの夜

テストを終えてシカゴへ来た百合草を横に乗せて、私は町へ乗り出した。駐在員たちが待っている食堂へ向かうのである。実は私、その日にイリノイ州の運転免許を取得したばかり。早速レンタカーを貸りての市中初運転なのである。そんな剣呑なクルマに乗ってくれるのも百合草だからこそだ。彼と私とは1960年同期入社。そのなかでもとくに親しい友人で、それが思いもかけず遠いアメリカの地で会えたのだから、一刻でもともにすごしたいところなのである。だが、そのクルマは、どんなにアクセルを踏み込んでも一向に走らない。

「アメリカ車も大したことないなぁ」などとぼやきながら、それでも得意げにハンドルを操る私に、彼がふと言った。

「タネさん、サイドブレーキをかけてるんじゃないか?」

そのとおり、それを解除すればたちまち快調に走る。後年、私は、製品企画に従事し、北米、欧州両大陸を縦横無尽に走り回って「カワサキ007」などと呼ばれることになるのだが、まことにお粗末な自動車初運転だった。日本ではB8などのバイクしか経験してなかったのである。

③ラリーとの因縁

私がカリフォルニア州での販売開始に向かって血道を上げている最中、1966年秋、スキップ・クラークが訪ねて来た。営業部長としてアメリカでヤマハをゼロから立ち上げた男、として業界では知名度が高かった。リンドンなどがいる東部代理店と、副社長オートバイ事業担当として契約したという。東部代理店も、オートバイ事業の特殊性がやっとわかったようで、その道のプロを起用したわけである。話してみたが、「ヤマハでは、ヤマハでは」ばかり言う。ヤマハでの成功体験があるだけに、それをもう一度繰り返そう、という訳だ。だが、ヤマハをまねている限り、いつまで経ってもそれに追いつくことはできない。後にマッハやZ1を企画するに際しても、「ホンダ、ヤマハと違うクルマ、それ以上のクルマ」をつねに意識した差別化人間の私である。経営に関してもその意識は同じで、「こんなヤマハ男とは一緒にやれないな」と思ったことだった。

この1966年、アメリカでは、数年来の日本オートバイ急成長の反動で、業界全体が販売不振と過剰在庫に悩んでいた。まだサムライを持たないカワサキは、B8、J1、W1などアメリカ市場では売れないモデルばかりだった。さすがプロのスキップをもってしても、天下の大勢とカワサキ・モデルラインの乏しさはどうにもならなかったのだろう。東部代理店は経営困難におちいり、川航がそれを買収するしかなかった。そうなるとカリフォルニア開店の経験者たる私しかいないカワサキである以上、私がその経営に当たるしかないのだった。

カリフォルニア直販開始後間もなく、年が明けて1967年、私は新会社の社屋探しから始めた。東部代理店はシカゴにいたが、カワサキに関してはシカゴはそのテリトリーではなかった。新会社は、東部からテキサスまで24州をカバーしやすい中心地に本社を構えるべきだからである。ニューヨーク周辺、バージニア州リッチモンド、ペンシルバニア州チェリーヒルズなどを検討した結果、ニューヨークからハドソン川を渡ってすぐのニュージャージー州ニューワーク郊外に社屋を借りた。ニューワークは、今では麻薬とマフィアに汚染されて全米屈指の危険な町になっているようだが、そのころはごく普通の平和な中都市だったのである。

やがて販売シーズン開始の3月初旬ギリギリになって、そこへスキップ以下数十名の一団が、書類などを満載したトラック1台と乗用車数台に分乗して、シカゴから集団移動して来た。新会社、“Eastern Kawasaki Motorcycle Corp(EKM)”は、東部代理店の販売店、従業員、在庫、それに売掛債権を全部引き継いでスタートするしかなかったのだった。ちなみに、前年11月カリフォルニアでスタートしたAmerican Kawasaki Motorcycle Corp(AKM)とこのEKMが合併して、現在のKMC(Kawasaki Motors Corp)となるのである。

川航の位では係長でもない31歳の私を社長にするわけにはいかなかったのだろう、私は“社長補佐”という意味不明の肩書きだったが、常駐する日本人は私だけ、実質的にはまごうかたなき社長であり、経営者としての初体験である。それが、かような寄り合い所帯、多額の赤字と在庫と売りかけを引き継いだ最悪の会社だったことが、いささか脳天気だった私をきびしくきたえることになったのは間違いない。

スキップが営業部長として販売、サービス、部品を、やはりシカゴから来た管理部長が経理、人事などを担当し、私が資金繰りを直接見ながら2人を統括する組織だった。さて、スキップは、前年東部代理店に入るや、セールス連中を全員クビにして、ヤマハ時代の部下に入れ替えていた。だから、百合草テストの功労者だったリンドンは去り、代わりにヤマハでスキップの配下だったラリーがテキサス担当となっていた。私が新会社に落ち着くと間もなくラリーはテキサスから電話をくれた。

「君の下で仕事できるようになってうれしい。百合草は元気かい? 本当にすばらしい男だった。機会があればよろしく伝えてくれ」

旧友との再会は、いつでもどこでもうれしいものである。だが、この旧友はかなり困った男であることもだんだんわかった。第一は営業会議である。スキップは毎月1回、10名のセールス全員をニューヨーク郊外の社屋に集めて営業会議をやる。24州と広大なテリトリーのあちこちから駆け付けるのだから、ニューヨーク担当などごく近間の1、2名を除いて、みんな飛行機でやって来る。ラリーが住むテキサス州の田舎町から会社までは1,600マイル、実に2,650kmもあるのだから、当然飛行機とすべきである。だが、この、荒っぽいレース運びと喧嘩速さで知られるテキサンは、飛行機で飛ぶのが怖くて耐えられないのだ。これだけの距離をクルマで往復するとなると数日かかる。ガソリン代、モーテル代も馬鹿にならない。途中で事故の可能性もある。管理部長が「気違いざただ」とはき捨てたのは当然だろう。

第二はケンカ騒ぎである。営業会議の夜はセールス全員がすぐ近くのモーテルに泊まるのだが、そこのバーで、ほかのお客と殴り合いの大ゲンカを始め、警察官が駆けつける騒ぎになった。なんでもそのお客がテキサスにケチを付けたのが原因とのことだった。アメリカ人の郷土意識、お国自慢は日本人とは比較にもならないくらい強烈だが、テキサンはとりわけ激しいのである。その後しばらくの間、そのモーテルはカワサキ関係者を客にするのを拒否し、この面でも管理部長をなげかせることになった。

第三は保険である。スピード違反をさんざん重ねた挙げ句、彼に自動車保険をかける会社がなくなってしまった。セールスはクルマに乗って販売店を訪問するのが仕事だから、保険なしでは、運転できなくては、陸に上がったカッパ同様、使い道がないことになる。アメリカ中の保険会社に電話で頼みまわり、常識外に不利な条件を飲まざるをえなかった管理部長が、彼を毛嫌いしたのは当然だろう。

だが、スキップ親分がそれらすべてを黙認しているし、加えてラリーはどうやら私ともなにやら特殊な関係があるらしいから、みんな黙っているしかないのだった。やがて起こったのがスタブ事件である。秋に入り、販売シーズンが終わるとともに、販売台数が急速に落ち込んできた。EKMのテリトリーでは冬場には全然売れないところが多い。加えてスキップは新販売店開拓にあまり熱心でなく、東部代理店から引き継いだ店群の多くは、サムライの新しさに頼るだけで、オフ・シーズンを耐え抜く力はないままだった。スキップのイライラがつのった。

ある日、私はテキサス州ヒューストンの販売店ジェリー・スタブに対して、巨額の売りかけ金が数ヶ月間も滞留したままなのを発見した。運転資金が乏しくもある我が社は、現金販売のみとし、一切のかけ売りを禁止していたから、これは明らかに方針違反である。私はスキップとラリーを追求し、2人をヒューストンへ派遣した。だが、入金は一ドルもないまま、とうとう私自身がジェリーを訪問することになった。彼は、ラリーが、「請求書はいつものとおり『現金払い』、などというけど、この分の支払はいつでもいい。スキップも承知だ。何とか引き受けてくれ。このままだとスキップが日本人にクビにされる」と頼み込んだこと、だからこそ、旧知のスキップやラリーを助けるべく、売れないのは承知で、これだけ大量のものを引き取ったこと、だが、はたせるかな全然売れておらず、支払いはできないこと、を述べた。販売ダウンにあせったスキップが、子飼いのラリーを使ってルール違反の押し込み販売を計ったのだ。それをチェックできないままだったのは私の失態だった。これを契機にスキップは去った。ラリーに会社へ出頭するよう伝えたのだが、彼はテキサスから電話してきた。

「どうせクビになるんだろう? そのためにまた片道1,600マイルドライブするのも面倒だ。辞めるよ。書類を送ってくれればサインして返送する。サムライテストは楽しかったなぁ。サムライは本当にベスト250だ。百合草によろしく伝えておいてくれ」

彼を懲戒解雇とせず、自己都合退職としたのは私のせめてもの友情だった。ジェリーもテキサンだった。全米一のスズキ販売店といわれた男が経営困難におちいり、何度も破産の危機に瀕しながらもしぶとく耐え抜いて、これから4年後の1971年、ついにカワサキへの全債務を完済してくれたのだ。すぐ破産手続きに逃れたがる商売人が多いアメリカでは、めずらしい美談とすべきだった。そのころ明石工場で、Z1が量産段階に入るのを見届けていた私は、それを聞いてとてもうれしかった。わがアメリカ・ビジネスにおける唯一の汚点が消えたからである。私は、ジェリー、スキップ、ラリーなどの懐かしい顔をしのびながら、1人でおおいに祝杯を挙げたことだった。

ハリウッドのウィルコック通りに面しいてたカワサキの販売店

ハリウッドのウィルコック通りに面しいてたカワサキの販売店。ショップの前に立つ左の人物が当時の筆者である

種子島 経

1960年、東京大学法学部卒。川崎航空機工業(現・川崎重工業)に入社。1966年からアメリカにわたり、Z1の開発にたずさわるとともに市場開拓に尽力した。当時の苦労話をまとめた書籍をはじめ、数冊を執筆している




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