ヨシムラ
予算2,000ドル
彼としても初めての海外だった。英語をしゃべることなどおよそできなかった。そして渡されたのは2,000ドルちょうどだった。そのころ日本から持ち出せる外貨は最大限これだけ、と決まっていたのである。アメリカの我々はまだ営業活動を始めておらず、従って資金援助などできようハズもないから、ともかくこの2,000ドルでテスト全部をまかなうしかないのだった。現に、レース場の借り賃、テストライダーの給料、みんなの宿泊費、食事代、ガソリン代から別送したA1、F2と部品類の通関手数料などにいたるまで、費用一切をこれから支出して済ませている。1ドル360円だから円換算では72万円。当時の我々の月給は2万円くらいだったからその36ヶ月分。かなりの金額のようだ。だが、アメリカ・サイドでは、単身赴任者たる私の月給が500ドル弱だったから、わずか4ヶ月分でしかない。1ドル360円の魔術、日本では巨額とも見えた2,000ドルだが、アメリカでは全然お寒い予算でしかないのだった。
シカゴの部品会社にいた田崎雅元(川重社長から現在会長)が東部代理店にかけ合って、そのテキサス、オクラホマ両州担当セールスのリンドン・グリーニーの協力を得ることになっていた。セールスといっても、自分でバイクを売るのではなくて、販売店を作り指導する役目、日本の自動車業界用語ではロードマンである。東部代理店は当初リンドンがこんなことに時間を費やすことに反対だった。それはユダヤ系の人々が経営する小さな総合商社で、欧州との貿易を主な仕事にしていた。1960年代の日本のオートバイブームを見て、急きょニューイングランドからテキサスまで24州をテリトリーとするカワサキ最大の代理店となったものの、もともとオートバイ事業に関する理解を欠いている面もあったのである。だが、当事者リンドンが反撃した。
「ホンダ以下ヤマハもスズキもみんな日本メーカーが全米代理店をやっているのに、我々の東部代理店はアメリカ資本です。販売店にしてみれば、それがいつ日本からクビにされるのかわからないのが不安で、つい資本投下するのをためらいがちになり、これが販売店作りに最大の障害になっているのです。そこへ日本から来た日本人の技術者を連れて行けば、みんな『じゃあ東部代理店も日本メーカーと一体なんだ』と安心します。加えて発表前のニューモデルまで見せれば喜びます。だからこれは販売店作りにも大いに役立つのです。ぜひ協力しましょう!」
オートバイ好き人間のリンドンにしてみれば、ともかくこのテストに参加したい一念からの理屈だったのだろうが、言えてないこともない。
テスト中に多くの販売店を訪問してサムライに乗せ、意見を聞き、そうやっていくつか新しい店を作ったのも事実である。これがテキサス・テストの噂となって、カリフォルニアの私を助けることにもなったのは“第2話”で述べたとおりだ。反面、この翌年、1967年には、この東部代理店も破産し、私がその経営にあたることにもなるのだが、そのしだいは追って語ることにしよう。
リンドンは、テスト・ライダーとしてラリー・ビールを雇うことにした。ラリーは、テキサス州で生まれ育った誇り高いテキサン。テキサスではかなり鳴らしたロードレーサーで、毎年デイトナを走ってもいた。ヤマハのセールスマンだったが、ちょうどそのころ、ヤマハを辞めてフリーだったのである。
テストはリンドンが住むオクラホマ州タルサで始まった。まず光電管を備えたレース場で、ラリーによるヤマハ、スズキとの比較テストを行なった。1/8マイル、0→200マイル加速テストの結果は次のとおりである。
タルサ数値(秒) | 川航数値(秒) | |
---|---|---|
X6 | 9.7 | 9.8 |
A1 | 10.14 | 9.87 |
YDS3 | 10.21 | 10.08 |
※「タルサ数値」はラリー、「川航数値」は明石のライダーによる
最高速では、A1とX6がほぼ同じ、YDS3は2mphほど遅かった。
ちなみに“第2話”の“サイクルワールド”テストでは、A1の1/8マイルは8・6秒になっている。試作車と量産車の違いもあったのだろう。ここで百合草は、2月9日付け報告書No.1を郵送するのだが、まず強調したのは、「加速ではX6が勝っている。向こうは量産車、こちらは今からキャブレターセッティングなどを仕上げていくべき試作車で、今後その差は縮まるだろう。だが絶対優位を確保するには、重量を10kgほど減らすしかない。そのため、シリンダーを鋳鉄からアルミに変更すべきである」ということだった。また、従来、国内向けと輸出車は仕様が違うのでは、といわれていたが、これで見るとまったく同一性能であることもわかった。さらに、ここで早くも、ラリーが国内ライダーとほぼ同等の腕前であることも確認できたのだった。
第一のアルミシリンダー要求に関して、当初明石工場は“不可能”と反応した。わずか数ヶ月後に生産開始をひかえて、全然量産経験のないアルミシリンダーに切り替えるなど技術的にムリだし、それによるコストアップは採算性をムチャクチャにしかねない、というわけだ。しかし、第2話で記したとおり、実は松本博之は、開発当初からひそかにアルミシリンダー研究を進めており、コストも計算済みで採算上大して問題ないことも確かめていた。だからこそ、この量産直前の大変更も、量産時期を遅らせることなく“可能”となったのである。
そのうちタルサでは雪が降り、路面凍結のため走行困難となった。そこで、百合草、リンドン、ラリーの3名は、ラリーがサムライをすっ飛ばし、他の2人はときどきラリーに代わりながら主として自動車で、ラリーの本拠地、暖かいテキサスへ向かって大移動を開始したのだった。ウィチタフォールズでオクラホマ州からテキサス州に入り、西下してサンアンジェロ、サンアントニオ、そこから南下してメキシコ国境沿いに、ときどきメキシコに入ってそのデコボコ道を走ったりしながら、西部劇でなじみ深いラレド、アラモなどを眺めて、最南端のブラウンスビル、ここから北上してコーパスクリスティに至り、そこから内陸に入って、ケネディ暗殺の後を継いで大統領を務めていたジョンソンの豪邸をオースティンに見たりしながら、ヒューストン、ダラスなどを経由してオクラホマ州へ帰ったのだった。
走行距離2,320マイルは約3,700km、日本列島を往復してなお、お釣りの来る距離である。ラリーは全行程をほぼ全開で突っ走るわけだから、焼き付きやピストン溶けはひん発した。だが、普通のユーザーはこんな乗り方などやらないし、これは想定内のことだった。初対面の外人2人、会話も不自由、しかもライダーたるラリーは最後に述べるようにかなり問題もあるジャジャ馬だったにもかかわらず、2人とも実によく働いてくれて所期の成果を上げることができた。これはやはり百合草のリーダーシップが大きくものを言ったのだろう。
各地の販売店なども加えながら、テスト、評価を重ねたのだが、サムライは全体として予想以上に高い評価を受けることができた。「今すでにベスト250だが、これで重量軽減が実現するなら文句なしにベストだ」が、一致した意見だった。スタイリングも好評で、とくに燃料タンクは“Very Good”とされた。テスト車のタンクにはゴムのニーグリップが付いていたが、「これはライディング上不要。ない方がかっこいい」という意見だった。それまでの日本車の常識に反することなのだが、やがてそれを取り入れてサムライはニーグリップなしになるし、マッハⅢ、Z1など最初からそうである。ライディングポジションについては、日本のライダーすべてが“不可”としていたのだが、ラリー以下のアメリカ勢は「パーフェクト、ヤマハ、スズキよりはるかによい」とした。これは、開発チーフで、また一番熱心なライダーでもあった松本博之が、178cmと当時としては日本人ばなれの長身だったことと関係あったのかもしれない。タイヤは、他社並の2.75-18、3.00-18を履いていたのだが、アメリカ人はもっと大きなサイズを好み、他社の250ccクラスでも多くのお客がより大きなものに交換していたことから、サムライは3.00、3.25での登場となる。また、5段変速、ボトム・ニュートラルも国内では議論の分かれたところで、念のために松本はリターン方式も準備していたのだが、「ボトム・ニュートラルはすばらしい!」となり、これがその後しばらくの間カワサキのチェンジ方式として定着していく。概して言えば、松本が日本の常識を踏み越えてチャレンジした諸点は、日本では不評だったが、アメリカでは好意的に迎えられたわけで、アメリカを見たこともない松本の手探りは大成功だったとすべきだろう。
百合草のアメリカ初体験の感想は、まとめれば次のようなものとなった。
①アメリカ人は楽しみでバイクに乗る。日本の通学、通勤、運搬のような“実用”は無視してよろしい。
アメリカでは、「実用車B8よ、さらば」、で行くしかないことがハッキリしたのだった。もっとも、70年代初頭の石油危機でガソリン代が高騰した時期に、大学生のバイク通学が一時大流行となり、それに対応すべくカワサキでは4サイクル2気筒のKZ400を出すのだが、これは後の話である。
②250ccクラスは国内では長距離ツーリング車と見られがちだが、アメリカでは街中ちょい乗りが主体である。
高速道路走行は500cc以上の4サイクル車の世界だ。「そこへ参入しよう!」の思いが Z1に始まるカワサキ4サイクル路線へと連なっていく。
③アメリカ人は移り気で、すぐ他のバイクに乗り替えたがる。この市場で伸びるには、開発能力アップ、とくに試作能力を強化して、開発期間を短縮することが絶対必要だ。
④レース活動は販売促進上重要である。完成車に加えて、市販レーサー、スピードキットなどを提供すべきである。
1ヶ月ちょっとの旅なのに、また言葉はままならず予算も乏しいなかで、実に的確な理解をしているのに今さらながら驚かされる。これらの多くは、百合草自身が開発陣の中心として推進しながら、その後のカワサキ躍進の要因となって行くのであった。
リンドンなどの家庭にまねかれることも多く、そこではアメリカの両親が子どものしつけに極めて熱心かつ厳格なのが印象的だった。当時のテキサスのことだから、トイレ、食堂などあらゆる場で白人・黒人の差別がはっきりとなされていたが、彼自身はいつもリンドンたちと一緒に白人の方を利用して問題なかったという。反面、コープクリスティでの一夜、隣のホテルで銃撃事件があったこと、1人でシカゴへドライブの途中、“Vacancy(空室あり)”のサインを見てモーテルへ入ったのに、フロントで、顔を見たうえで「部屋はない」と断られたことなど、銃社会、差別社会テキサスとして記憶に新しいそうである。
2,000ドルで彼が意図した3つの目的をすべてはたし、その噂で私のカリフォルニア販売開始まで助け、実に素晴らしいテストを30歳の青年がやってのけたのである。
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種子島 経
1960年、東京大学法学部卒。川崎航空機工業(現・川崎重工業)に入社。1966年からアメリカにわたり、Z1の開発にたずさわるとともに市場開拓に尽力した。当時の苦労話をまとめた書籍をはじめ、数冊を執筆している