ヨシムラ
レーサーのニンジャといえば1986年に鈴鹿8耐へ参戦した月木レーシングのGPZ750R、テイスト・オブ・フリーランスのD.O.B.A.R F-ZEROを制したイエローコーン&鶴田竜二のGPZ750Rが有名どころ。しかし忘れてはいけない一台がある。それがビートのニンジャだ。
強大なライバルたちに鉄フレームGPZで果敢に挑戦
ニンジャのレーサーといえば、1986年に鈴鹿8耐に参戦し、10位入賞をはたして世界選手権のポイントを獲得した月木レーシングのGPZ750Rをまず思い浮かべる人も多いのではないだろうか。
ホンダRVF750を駆るワイン・ガードナー、平 忠彦や“キング”ケニー・ロバーツのヤマハFZR750、ヨシムラからGSX-R750で走った辻本 聡など、キラ星のごときライダーが当時最速を競い合ったワークスマシンで駆け抜けたなか、10位入賞をはたす大健闘を見せたことが、現代のニンジャフリークにもインパクトを大きく残したといえる。
現在でも月木レーシングのレーサーニンジャの認知度は高い。ピュアレーサー化したニンジャの元祖・代表格とも目されるほどだ。だが、それに先立つこと1年前、1985年の鈴鹿8耐を戦った別のGPZ750Rのことをご存じだろうか。1985年は2チームがGPZ750Rで鈴鹿を走っている。一つはカワサキ内の有志が結成した“チーム38”を母体とするチームグリーン、そしてもう一つが、今回紹介するビートのレーサーGPZ750Rだった。
ビートはそれまで鈴鹿8耐や鈴鹿4耐、400ccクラスのF3に参戦した経験があった。しかしチームとしての参戦もまちまちだったため準備が遅れ、エントリーが決定したのは6月。マシン作りはたった3週間程度で行なわれたという。8耐ウィーク最初の月曜日にシェイクダウンで東コースのみを走行して、文字どおりの“ぶっつけ本番”で耐久レースの最高峰に挑むことになったのだ。
ちなみにマシン製作に関しても、鉄フレームマシンと重量面でかなり不利な状況もあった。そこを根本的に解決するには新フレームの開発しかない。しかし、そのための時間と予算が限られていた関係から新規開発はあきらめ、必要最小限の補強にとどめるなど、基本的にはライトチューンという内容。ただし補強する位置に関してはかなりこだわった内容だとのことだ。
そのほかの、たとえばエンジンチューンも基本はライトチューンにとどめ、あとはノーマルのスイングアームに補強を加えたり、あるいはパーツをKR500などから流用したりと他車流用によって作り上げられている。その性能面だけ見れば、HRCが持ち込んだRVF750やヨシムラ・スズキのGSX-R750、ヤマハワークスのFZR750におよぶものでなかったのは明らかだ。しかしライトチューンという内容ながら、鈴鹿8耐に挑戦したプライベーターチームとしては22位と十分といえる結果を残したのだ。
その後、このGPZ750Rはビートの倉庫で永らく放置されることになる。基本的にレーサーがそのままの状態で保存されることはほとんどない。たいていの場合、今後の使用に耐えうるパーツは外され、他車両に流用されていく。あるいは車両そのものが第三者に売却・譲渡されることもめずらしくない。レーサーGPZも同様にカウリングやタンクなどを失い、そのまま朽ちていくだけの運命を待つかのごとくだったという。しかし1996年に修復を受け、現在もなおビートの倉庫に鎮座し続けている。動かすことはまずないため、2008年7月の取材時にはホコリをカブっていたものの、当時を思わせるスタイルはそのままに、我々にその雄姿を見せてくれた。
かつて鈴鹿8耐を駆けたGPZ750R。その記憶がこれからも色あせることはない。
1985年鈴鹿8耐参戦[BEET GPZ750R]
1996年に現在の形に修復されたビートGPZ750R。外装類はシートを除いて新調されているが、当時の面影を極力残したパーツ選択となっている。マフラーも1996年に新調されたモノだ。それ以外の基本パッケージは当時そのままとなる。フロントが16インチから17インチ化されている点(リヤは18インチのまま)が特徴。アンチノーズダイブもキャンセルされるが、コーナリングで不安定なのは最後まで改善できなかった。