ヨシムラ
当時を知っているからこそわかることがある。混沌とした現代にこそ、我々は忘れられつつあるカワサキの創成期のあらゆるエピソードを伝え、その想いを受け止めるべきではないだろうか。今回は、ヨーロッパの販売網の基盤を作り上げた商社マンのエピソードをつづる。
有力な地元メーカーが未だ健在な欧州で、西明石発・後発メーカーの定着を遂げる
昭和30年代後半、単車事業の業績不振に悩んでいたカワサキは、再建をかけて単車事業部を独立させると、開発・生産・販売を強化した。同時に、流通機構の確立をかかげる方針もうち立てる。この流通機構の確立には国内だけでなく、海外の販売体制を強化する目的も含まれていた。
海外での販売強化のため、昭和39年、B8をアメリカへ輸出し始める。そして、徐々に海外の販売体制を確立し始めたカワサキは、ヨーロッパへの輸出にも着手するようになる。このヨーロッパに向けた流通機構の確立に、大きく貢献したのが総合商社の伊藤忠商事だった。
伊藤忠商事は、カワサキのヨーロッパに向けた輸出業務を請け負うと同時に、現地ではカワサキ車の販売網を築いていく。この流れのなか、先陣を切って販売促進に努めたのが、伊藤忠商事の遠藤治一である。
遠藤は昭和36年に伊藤忠商事に入社する。ちょうどカワサキが新しい生産・販売体制をスタートし、オリジナル商品第一号となるB7とペットM5の発売を開始した年でもあった。伊藤忠商事に入社後、遠藤は輸出商品を取り扱う輸出物資課に所属し、主にバイクや自転車の輸出業務を担当していた。
「この時代、バイクの輸出を商社に請け負っているメーカーと、自社で直接やっているメーカーがあってね。当時、メーカーは貿易要員が今ほど充実していなく、販売体制も確立していなかったので、輸出業務を商社に依頼するケースも多かったの。でも、ホンダは直接輸出を基本としていたかな…。後発だったスズキなんかは一部の国で商社を使っていたね。なかでも、輸出に関して一番遅れていたのはカワサキだったんだ」
対して総合商社だが、少しでも多くの輸出製品を取り扱いたい時期でもあった。当時、伊藤忠商事以外にも住友商事、岩井産業(後の日商岩井)、安宅産業などがバイクの輸出業務にたずさわっていた。
海外に進出したいが要請人員や販売体制が確立していないメーカーと、少しでも多くの輸出製品の取り扱いを願う総合商社。2つの業種が絡み合うのは必然的で、遠藤は川崎航空機(現、川崎重工業)企画部輸出課を訪れる。
「『ヨーロッパへの輸出に関してはほとんど手がついてません』と伝えられてね。それならば我々にお手伝いさせてくださいと願い出たの。『ぜひお願いします』との返答でした」
己の限度を心得て、足りないところを補う
昭和39年、B8のアメリカ輸出が開始される一方で、同じ年、ヨーロッパ進出に向けたカワサキの第一歩が踏み出された。
ヨーロッパの本格的な市場開拓は昭和42年から開始される。ところが日本では大手総合商社の伊藤忠商事であっても、当時のヨーロッパでは無名で、そもそも総合商社の存在自体さえも理解してもらえなかった。
「当時、商社というのは世界にない業態だったからね。向こうからしたら、遠い国の商社なんてわけわからない存在だったんだろうね。『なぜメーカーは自分でやらないで人に任せるんだ』と反応されたりしてね。伊藤忠商事の遠藤だって言ったって、『お前、誰だ』とか『本当にカワサキの人間か?』『カワサキとどういう関係なんだ』と、そこから説明しなければならなかったんだから」
証明するものが必要だ。こう感じた遠藤は、川崎航空機の輸出課に、カワサキオートバイ販売員を証明する証書を作成してもらう。そして遠藤はヨーロッパで、販売代理店の設立に向けて動き出す。
ただし時代は、カワサキが本格的に車両を輸出していなかった時代。ヨーロッパではカワサキは一般に認知されていなかった。
「なにせ欧州メーカーが健在だった。でも、ホンダ、ヤマハ、スズキの認知度が高まりつつあってね。そのなかでカワサキは、最後発として市場に出て行ったんだよ。カワサキに関しては『どんな履歴のメーカーなの?』といった反応で、それに対して私は、他社とは違い航空機を作る技術を持っていて、技術の高いメーカーなんだよと返答したの」
遠藤がヨーロッパの市場開拓にしのぎを削っていた昭和42年、カワサキはマン島TTレースやWGPに参戦。一部ではあるが、レース界などでは、徐々にカワサキの名が広まっていった。そのレースのうちの一つモトクロスに参戦していたライダーが、カワサキの代理店を設立したいと申し出てきたのである。こうしてヨーロッパで初となるカワサキ販売代理店がデンマークで設立する。
ちょうどそのころ、遠藤はカワサキの認知度を上げるため、ある行動に出る。イギリスのロンドンの郊外に位置する地区、アールズコートで毎年開催されていたモーターサイクルショーで、昭和42年、カワサキブースを出展したのだ。これは、欧州におけるカワサキ初の出展だった。当時、このショーはヨーロッパ最大規模のモーターサイクルショーで、遠藤はここにW2SSとA1をメインとして、B8などを出品した。ショーでの注目度は絶大だった。
「これはイケるなと思ったよ。でもね、ショーの人気が実際の販売に結び付くかといったら、それは違ったんだよね。カワサキのバイクはヨーロッパじゃ珍しいから人は集まったんだけど、だからといって買うかといったら…、売れなかったんだよね。『これはBSAとかトライアンフのフルコピーだ』と。それでもA1は、なかなかの評価だったんだけど、カワサキを定着させるまでには行かなかったね」
有力な地元メーカーが支持されるヨーロッパで、認知度を上げることはできても、カワサキというブランドを定着させて販売台数を上げることは難しかった。しかし、一台のモデルの登場により、状況は一変する。500SSの販売開始である。
「このモデルでカワサキのイメージが定着した。とくにフランスではものすごい人気だった。このモデルは売れたね。ラテン系が喜んだんだよ。これは世界最速のバイクだと。カワサキっていうのはパフォーマンスとスピードだと。Z1も強烈だったけど、まずパフォーマンスとスピードのカワサキというイメージをアピールしたのは500SSだね」
当時、フランスで製作された500SSのイメージ映像がある。500SSが道路を走り抜けると、その勢いで、街路樹に止っている鳥の羽が吹き飛ばされてしまうというものだ。ヨーロッパにおける500SSのイメージは、強烈なスピードと加速そのものだった。これがそのままカワサキのイメージとなった。
製販協業の精神を元に、太いパイプで結ばれていた2社
この時期になるとフランス、イギリス、ノルウェー、ドイツ、スイス、イタリアと代理店としての成約が決まっていく。そして昭和46年、オランダには、カワサキの欧州部品センターであるカワサキモータースヨーロッパが創設される。こうしてヨーロッパにおけるカワサキの基盤が固まっていった。
「カワサキと伊藤忠商事の関係は、通常のメーカーと商社の関係じゃなかった。日本の社会は江戸時代以来の士農工商の世界なんだよ。“商”の立場が低い。実際、私もそう思いますよ、商社って物を作ってないから。誰かが作った物で商売しなければならない。ただ当時、メーカーだけでは確立できない貿易などの業務があったのも事実。“己の限度を心得て、足らないところを補う”。カワサキは製造会社です。ただ、カワサキのなかには、製販協業の精神を理解している方がいた。その方たちとは今もお付き合いさせていただいていますが。それと商社というのは、メーカーの取扱代理店的な立場というのが普通なんだよ。でも、伊藤忠商事は違って、カワサキに代わり、販売店に資本を提供していたの。だから、カワサキと伊藤忠商事というのは協業の精神のもと、人的にも資本的にも非常に太いパイプで結ばれていたんだ」
伊藤忠商事、そして遠藤が欧州で作り上げたカワサキ販売網確立の功績は大きい。だがこの功績は、協業の精神を理解したカワサキのスタッフがいたからこそ成し得たといえる。
プロフィール・遠藤治一
昭和13年2月23日生まれ。昭和36年、伊藤忠商事入社。物資部輸出物資課に配属され、昭和41年からカワサキ車のヨーロッパへの流通業務を担当する。昭和57年、カワサキモータースフランス取締役社長に就任。昭和64年、同社取締役社長と兼務で、カワサキモータースイタリー取締役社長に就任。ヨーロッパへの輸出業務を請け負いながら、販売網確立に努めた