ヨシムラ
当時を知っているからこそわかることがある。混沌とした現代にこそ、我々は忘れ去られつつあるカワサキの創成期のあらゆるエピソードを今に伝え、その想いを受け止めるべきではないだろうか。今回は、今に続く販売システムの原点を作り上げた野田浩志氏の奔走劇をつづる。
メーカーと販売店、双方の利益を上げる手法
造船、そして航空機産業を主な事業内容としていたカワサキが、本格的に単車事業へ進出し始めたのは昭和30年代のことだった。昭和35年に単車製造準備室を設立すると、昭和36年にはバイクの販売を事業内容とする系列会社、カワサキ自動車販売を発足する。さらにその年、カワサキオリジナルの第一号機B7を発売し、夏にはペットM5の発売も開始した。カワサキにとってバイクの生産及び販売の新体制のスタートである。野田浩志がカワサキに入社したのは、この渦中でのことだった。
まだ産声を上げたばかりのカワサキの単車事業にたずさわるなか、現在でいうところのカワサキ正規取扱店や、カワサキの従業員が独立し、店舗経営に携わる従業員独立制度を構築させたのが野田である。これらシステムの構築は、カワサキの車両がまだ市場から支持を得ていなかった時代、市場を確保すべく販売促進に努めたがゆえの結果といえる。
このように新しいシステムを次々と構築した野田だが、入社前、直後は単車事業にたずさわることになるとは思っていなかったと語る。
昭和36年、野田は航空機産業にあこがれてカワサキに入社する。しかし時代は太平洋戦争の余波が残っていた。敗戦国である日本は戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)により航空機の製造が禁止されており、その禁止令が解除された昭和30年代も、日本は航空機産業の軌道に乗りきれずにいた。このようなことも理由の一つとなり、野田は入社後、発動機部に配属され、農業用・建築機械用エンジンの営業に勤しんだ。
「航空機産業への配属ではありませんでしたが、配属された部署からカワサキでの私の仕事が始まるんだという気持ちでした」
入社当時は単車事業に関わっていなかった野田だが、発動機部内には単車課が組織されており、身辺では、日常会話のなかにバイクの話題も上がっていた。そのころカワサキは徐々に単車事業を強化していき、野田も昭和39年に単車事業部へ異動になる。当時カワサキは県単位に販売代理店を設け、その販売代理店から販売店に車両が卸されていた。野田はその販売代理店の指導を担うこととなった。
販売店は2形態に分けることができた。一つは、自転車を店内の商品構成の中心とし、軽量車も扱うといった小規模店舗で、もう一つは屋号の一部に“モータース”とうたっているようなバイク専門店である。このうちカワサキの車両は前者の店舗に卸されることが多かった。一方、カワサキに吸収されることとなったメグロの車両は、後者のような販売店に並べられる傾向が強かった。
「カワサキは後発メーカーということもあって、すでに実績のあったメグロの方が販売店からの評価は高かったんです。販売店はメグロ1本でも食っていけた。それに対して当時のカワサキの車両は、店を支えていくような商品とはいいきれないと。そんな評価をされていた時代でしたよ。だから、カワサキの車両は大規模店に並べてもらえる機会が少なかったんです」
このような状況を打破し、カワサキの車両を少しでも多くの店舗に並べるべく、野田は販売代理店の経営に関与してく。
販売店に車両を卸していたのは販売代理店だけでなく、カワサキオートバイ販売の営業所が販売代理店をかねている地域もあった。その一つが長野県の松本営業所で、いわば身内の販売代理店ともいえた。
「気が付けば、身内にも販売に苦労しているところがあると。それで、松本営業所をどうにかしなければと、販売強化のために私が松本営業所に行くことになったんです」
“一台でもいいから店頭に並べ、取扱店をいかに多く確保するか”
その既存の手法からの脱皮
昭和40年のことで、在籍していた川崎航空機工業(現、川崎重工業)から、カワサキオートバイ販売に出向というカタチで、松本営業所に勤務した。営業スタイルは、地域内のバイク販売店と自転車屋を一軒一軒しらみつぶしに訪問するスタイルで、カワサキに限らず当時はこの手法が主流だった。
「一生懸命やれば売れる。あらゆる販売店という販売店を訪問しているうちに売れるだろうと。一台でもいいから店頭に並べてもらい、その販売店をいかに多くするか。たとえば、1台置いてくれる販売店を500店作る。そうすれば500台売れる。そんな考えで営業してましたね」
ところが当時は数多くのバイクメーカーが乱立していた時代。対して、現在のような広いショールームを完備している販売店は少なく、バイクを10台も置けば店内はいっぱいといったような販売店が大半だった。したがって、売りやすい車両が厳選されて店頭に並べられていた。
「車両を新しく一台置かせて下さいとお願いしても、販売店の反応は鈍かったですよ。『帰れ』までとは言われませんでしたけど、『来てもらっても、そんなに役に立てないな』『まぁ、並べてやりたいけど自分の店のプラスになるわけでもないし』といった反応が多かったですね」
もう一つ、すでに店頭に並べている車両を販売店が優先する理由があった。販売台数に応じたリベートだ。たとえば、10台売ると利益を販売店に還元するというようなシステムを設けていたメーカーが存在したのだ。販売店にしてみれば、自店の利益のことを考えたとき、そのようなメーカーの車両を率先して販売するというのは自然の流れだった。このような状況において、ひたすら店舗を回るだけの営業ではダメだ…。野田がそう気付き始めたころ、松本営業所から明石の本社へ異動が決まった。松本営業所に転勤してから4年ほど経過したころだった。
本社に異動した後、野田は会社に、ある考案を挙げる。
「メーカーだけでなく、販売店が儲かるシステムを作らないといけないと提案したんです。販売店の利益を上げるには、卸値を下げれば済む話ですが、我々にはその体力がありませんでした。それならば、たとえば10店で1台ずつ売るのを1店にして、その販売店だけで10台売ってもらい、他の販売店にはカワサキの車両を卸しませんと。その代りカワサキを中心に扱ってもらうというシステムを考えたんです。そうすればカワサキを買おうとするお客さんは、その販売店に来店し、カワサキが販売店の生活の支えになるのではと考えました。カワサキの取扱店は全国1万店でなくても2000店でもいいと」
ところが会社からは、「店の数があってこそ売れるんだ。その店を減らすことは自滅することだ」と、猛反発を食らう。
このように野田が松本営業所で販売網の確立に奮闘し、新しいシステムを考案していたとき、東京などの都市部ではW1やA1が好評を得ていた。そのため、それらの車両を扱う販売店を特定する動きがカワサキから出始めた。この動きが野田の提案を後押しした。こうして、カワサキの車両を扱う販売店を特定する特約店制度が確立した。この特約店制度が、現在、カワサキの新車を直接メーカーから仕入れているカワサキ正規取扱店の原点ともいえる。
「ただ、反対派からしてみれば、W1やA1などの大型車が売れるのは都市部ならではの傾向で、だからこそ都市部では取扱店も特定できると。軽量車が支持されているような地域では、取扱店を特定するシステムは通用しないとの考えでしたね」
この反対派の考えは、あながち外れではなく、特約店制度を確立したものの、カワサキのバイクで勝負しようという販売店で全国をくまなく埋めるまでには至らなかった。そこで考えたのが直営店の設置だ。
カワサキはテストケースとして、特約店のない地域に自社で小売りをする直営店を設けたのである。ただし、いつまでも直営店を設置しているのではなく、直営店の経営が軌道に乗ったとき、希望者が現れれば直営店を譲渡するシステムとしたのだ。
「我々はメーカーであって小売業ではありません。したがって、直営店を人に譲るということを考えたのです。いうなればノレン分けですね」
このノレン分けが、従業員独立制度へとつながっていく。従業員独立制度とは、カワサキの従業員のなかで販売店を設立したいという希望者がいれば、審査の後、全面的にバックアップするという制度である。野田がこの制度を考案したときも、成長した従業員を手放してしまうことになるのではと、会社側からの抵抗はあったという。しかし、この制度が成功すれば、カワサキを理解する販売店が増えると同時に、車両の販売台数も増え、市場にカワサキの車両が多く出回る。すると、カワサキの認知度および支持も上がり、カワサキで働きたいという人も増えるのではと野田は主張した。それでもすぐにとはいかなかったものの、やがて従業員独立制度が確立する。
さらに野田はその後、販売店スタッフを対象とした技術指導システムや、一般ユーザーを対象とした現在の各種ミーティングの原点ともいえるような、バイクライフをサポートするイベントなど、新しいシステムやサービスを次々に考案していく。今でこそこれらのシステムやサービスは当たり前となっているが、野田の奔走は、その当たり前をカタチにして、なおかつ普及させるための戦いだったのだ。
プロフィール・野田浩志
昭和13年生まれ。昭和36年、カワサキ航空機工業(現、川崎重工業)入社。発動機事業部営業課に配属。その後、カワサキオートバイ販売に出向し、特約店制度や従業員独立制度を確立する。平成3年にKMC※1代表取締役社長、平成9年に川崎重工業(USA)の代表取締役社長に就任。平成14年に川崎重工業を退職し、経営コンサルタントを主とした事業を立ち上げる。
※1 KMC:アメリカに拠点を置き、北米を販売対象エリアとしたカワサキの販売会社