ヨシムラ
当時を知っているからこそわかることがある。混沌とした現代にこそ、我々は忘れ去られつつあるカワサキ創世記のあらゆるエピソードを今に伝え、その想いを受け止めるべきではないだろうか。今回は、メグロの烏山工場があった栃木県那須烏山市に住んで、移り変わりを目の当たりにしてきた田代秀夫氏に当時の話を聞いた。
烏山工場のすぐそばですごした少年時代
田代さんは、栃木県の旧烏山(からすやま)町で生まれ育った。旧南那須町、旧小川町、旧馬頭町とともに合併して那須烏山市となった今も、同じ土地に住んでいる。
烏山といえば、ピンとくる人もいることだろう。そう、メグロの烏山工場があった場所である。戦前の昭和18年に操業を開始して軍需製品の製造を行なっていた烏山工場は、戦後はトランスミッションや部品製造を行ない、やがて125ccクラスの量産に際しては車体の製造ラインも設備されるようになり、メグロの二輪生産を支える重要な拠点であったのだ。
しかし、昭和35年ころから労働争議が激しくなり、東京本社はもちろん、烏山工場でもストライキやロックアウトが起こっていて、そうした騒ぎは地元にも伝わっていたようで、田代さんも子ども心に大変なようすだと思ったようである。
ただ、メグロの企業城下町的な場所だったはずで、そうした環境下ではメグロは身近な存在だったのではないかと思ったが、意外とそうでもなかったようだ。というのも田代さんは学生時代(昭和40年ごろ)にホンダ・CL90で走りまわっていたが、そのころはすでに川崎航空機工業に吸収されていた。もちろん、まだメグロも流通はしていたが、当時は自動車が普及し始め、農家の長男などは早速自動車を乗り回したりしていたとか。
「だから、まわりにメグロ乗ってるやつなんかいなかったね。ただ、メグロは官公庁への納入が多かったみたいで、県の職員なんかが乗っているのはよく見かけたかな。それから、畜産業関係でよく乗られていたから、獣医さんとか、畜産部の職員が乗るものだったね。あとはやっぱり白バイだな」
当時は道路の整備がほぼ済んでいて、砂利道に悩まされることもなかった。自動車が徐々に普及し始め、バイクの実用車としての優位性が少しずつ失われ始めていた。
「あのころは、ツーリングっていうよりは、移動のアシだったからね。働き始めるようになるとクルマが欲しくなる。それでも高くて買えなかったから、名前は忘れたがヤマハの305ccに乗って通勤してたっけ」
18歳で専門学校を卒業すると、畜産関連の会社に2度就職するが、どちらも相次いで倒産してしまう。そこで倒産しないところで働きたいということで栃木県の職を得て、現在まで勤めあげている。バイクに乗っていたのは公務員になる前の話であり、やがて自動車を購入し、バイクからは離れていった。
「畜産試験場にもメグロがあったんだけど、獣医さんも自動車に乗るような時代だったから、もう誰も乗らないのでうっちゃられていたよ。もったいなかったけど、県のものは払い下げないから、どうしようもなかった」
しかし、メグロに対する強いあこがれは残っていたようだ。それは35歳のときにジュニアS8とK1スタミナの購入という形で現れた。
「昔は俺らは買えなかったでしょ。その気持ちが強かったんだね」
今もそのS8は手元にあり、元気に走り回っている。
プロフィール・田代秀夫
旧車の収集が趣味で、ガレージにはメーカー問わず、多くのバイクが並ぶ。なかでもお気に入りはジュニアS8で、今でもこれでツーリングに出かけるという。