カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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ヨシムラ

当時を知っているからこそわかることがある。混沌とした現代にこそ、我々は忘れさられつつあるカワサキ創成期のあらゆるエピソードをいまに伝え、その想いを受け止めるべきではないだろうか。今回は、メグロが出回る以前から栃木県でバイクショップを営む宇都宮メグロ(現カワサキ プラザ宇都宮インターパーク)の2代目・関沢春男氏に当時の話を聞いた。

 “宇都宮の関沢”で通じたメグロ専売店

栃木県の宇都宮市にて、3代に渡ってバイクショップ・宇都宮メグロを営んできた関沢家。その2代目に当たるのが関沢春男である。全国のカワサキ正規取扱店のうちで唯一“メグロ”の名を掲げる同店は、春男が物心ついたころには、すでに宇都宮市街に店を構えていた。

「当時は関沢商店といって、自転車やバイクの修理が生業でね。販売はしてなくて、お客さんがどこからか買ってきたやつを修理するのが仕事だった。当時は外車ばかり。ハーレーにインディアン、BMWにツンダップ、アリエル、ノートン、トライアンフ、AJS、BSAとかね」

まだメグロが出回る前であり、国産車はまだまだの時代であった。

「16のときにお店に預かっていたBSAを、オヤジが寝てる間に引っ張り出して練習して免許を取ったの。試験車両はトライアンフ。BSAで練習してトライアンフで免許取ったわけです。栃木県の免許試験場ではメグロのZ500が最初の国産車だったんじゃないかな。それまでは、トライアンフやノートン、アリエルなど、ほとんどが県警の白バイの払い下げなどだったからね。1954年ごろから試験車がメグロや陸王などの国産車になっていったんだね」

そのときにはすでに関沢の店ではメグロの販売を開始していた。それまでの修理業から販売へとシフトしていったのである。

「うちがメグロを売り始めたのが1950年ごろです。私が定時制の高校に通いながら、オヤジの手伝いを始めたころですよ。ちょうど500のスペシャルというのが出てたね。フィッシュテールマフラーといって、マフラーエンドが魚の形してたんですよ。確か25万円くらいでしたかね」

現在のように裕福な時代の話ではない。父親の実家の農家からお米をもらったりしてなんとか食べていける程度の暮らしぶりだったと語る。働きながら高校に通う日々だったが、それでもバイクを扱う仕事はずいぶん楽しかったようだ。当時のメグロについてもこう回想する。

「メグロっていうのはね、本社は東京の桐ケ谷にありましたけど、ミッション工場が栃木県の烏山にあったんですよ。今ではチェンジペダルを踏んで、足を放すと元の位置に戻りますね。それは烏山工場で開発された機構なんですよ。当時は踏んでも元には戻らないのが当たり前。それを戻るようにしたんです。でもなかには、ペダルを踏んだっきり戻んない不良品があってね。ミッションをオートバイから降ろして風呂敷にくるんで、電車で烏山工場に行ったもんです。その場でバラしてくれて、引っかかってる部分をたがねで削って『はい、直ったよ!』ってね。それで、また電車に乗って帰ってくるんですよ」

メグロの工場では“宇都宮の関沢”で通じたという。距離的に近いこともあって、何かあれば顔を出すような関係だった。そして、そうした用足しは、店の手伝いを始めたばかりの関沢の仕事だった。出先でのトラブルへの対応も同様である。

「出先から『エンジンがかからない』とか『パンクした』とか連絡が入る。当時は今と違って、道が舗装されてなかったからね。宇都宮の町を一歩出れば、どこも砂利道ですよ。1日に5台も6台もあっちこっちでパンクだなんていうと、朝から晩までパンク修理してたこともあります」

夜中に叩き起こされることも何度となくあったと語る。

当時のメグロ乗りといえば医者と山師とバクロ師

やがて何年かするうちに、烏山工場では125ccや170ccの小排気量エンジンも作るようになった。

「レジナとかキャデット、レンジャーといった小さいバイクのエンジンを作るようになったんだよね。もちろん店でもたくさん売りましたよ」

メグロといえば大型車のイメージだが、小型車のラインナップも充実していた。そもそもバイクという乗り物自体、非常に高価なものであったので、大型車よりも安価な小型車の方が重宝されたようである。

「その当時、私らの月給が1万3,000円ぐらいでしたから、25万円近くしたメグロの大型車なんて、とても買えなかった。だから大型車はお医者さんとかバクロ師※1とか山師※2がね、腹巻に現金入れて買いにきたもんですよ。それと酪農関係。県の衛生保健所の畜産課には獣医さんがたくさんいてね。牛の種と注射器をバイクに積んでは農家に行って、牛に種付けして回っていたんですよ。多いときは一度に10台20台って納めたもんです」

※1 バクロ師:農家から家畜の牛や馬を買い付けて、食肉業者へと卸す仲買人の役目をはたした。農家を回るのにバイクが活躍した
※2 山師:地主から山などを買い取り、そこに生えている木を材木業者へと卸すことを生業としていた。山を見て回るのにバイクを利用していたようだ

高価であっただけに、当時のバイク需要は役所関連が多かったようだ。とくにメグロといえば白バイに多数採用されたことでも知られている。栃木県でも同様だった。

「1958、59、60年と連続して採用されたのがZ500でしたね。これは壊れないし、乗り心地もよくスピードも出る。いいバイクでしたね。メグロが警察庁と取引して、警察庁から各県に配車されてくるので、うちで整備してナンバー取って納めるんですよ。するとね、白バイ乗りたちが毎朝うちにくるようになったの。昔は物影に隠れてて、速いのが来るとキックでエンジンをかけて追いかけるわけ。でも2回も3回もキックしてたら、その間に逃げられちゃうよね。だから毎朝一発でかかるように調整しに来るんですよ。それと出先でエンジンがかからないなんてときは、近くの駐在所なんかに置いてきちゃうときがあるんですよ。そんなときは翌朝、パトカーで迎えに来てね。『春男ちゃん、一緒に行ってくれや』ってね。で、道具を持ってパトカーの後ろに乗っかってそこまで取りに行くんです。帰りは修理した白バイに乗って帰ってくるんですよ。途中、警察学校を卒業したばっかりの若者が辻に立ってたりするとね、俺にパッと敬礼するわけ。俺もこう『おつかれ』と返すわけ。気分がよかったよ(笑)」

[証言者・関沢春男]知名度ゼロで苦労したメグロからメイハツへの移行

1958年、メグロのZ500を白バイとして県警に納車した際に、記念に撮影したという一枚。場所は日光街道で、またがっているのは当時の巡査部長だとか

メグロに入った弟とともに苦労したカワサキへの移行

白バイにも採用され、国産バイクメーカーの雄として栄華を誇ったメグロ。実はそのメグロに春男の弟が入社していた。

「兄弟が多くて、生活も苦しいから家の手伝いしながらやってきたけど、弟からは全部大学に行かせたの。オヤジと俺が働いて仕送りしてね。ところが大学出ても景気が悪いから就職先がないんですよ。だから『だったらメグロに入れ』って」

当時、烏山工場に月一回、目黒製作所の社長が訪れていたが、その際は必ず宇都宮メグロを訪れていたため、社長との面識も深かった。

「うちの井戸水はおいしいから、それを飲みに寄るんですよ。そのついでに販売の状況を聞いたり、故障や性能はどうですか、と聞いたり。そんな関係があったから、メグロには口が利いたんだね。それに、私らが本社に行くとね、社長がオールズモビルに乗せてね、五反田かどっかの料亭に連れて行ってくれるんですよ。メグロにしてみるとうちはお客さんだったからね。そんなこともあったもんで、弟がメグロに入社できたの。ただ、経営が悪くなって苦労に苦労を重ねてね、給料は遅配だし、下請け業者に金が払えねえし。そのころのメグロは第二の三池炭鉱って言われるくらい、赤旗持って労働組合がわっしょいわっしょいと門の前で騒いじゃったんです。それでだんだん人がやめて行って、最後は100人ぐらいになっちゃった」

やがて目黒製作所は1964年に実質的に倒産して川崎航空に吸収されるのだが、その際に弟さんはカワサキに移ったのだった。宇都宮メグロで扱う車両もメグロからカワサキに変わっていった。当時はまだカワサキではなく、メイハツというブランドでバイクを販売していたが、その販売は容易ではなかったという。

「川崎航空はメグロと同時に全国の販売店も吸収した形になったわけですよ。そこへ今度はメイハツのM5だのを持ってくるわけです。ところが名前が知られてないわけですよ。メグロといえば白バイまで作ってたから有名だった。ところがカワサキは関西のメーカーで、『これ、どこの会社?』なんて言われて」

こうしてメイハツになってからは新車販売は不振となっていった。当初は性能が悪く、故障も多かったそうだが、B8がリリースされるころにはモトクロスでもいい成績を残すなどして、性能もかなりよくなっていく。しかし、販売が上向くことはなかったという。

「バイクはよくなっても、知名度がないから売れない。ずっと販売数はマアマアでしたね。それはカワサキブランドになってからも、しばらくは変わらなかったですね」

カワサキへの移行には大きな苦労があったようだ。それでも思い出に残っている1台には、カワサキに移行し始めたころのモデル・K2スタミナを挙げる。

「クランクシャフトにベアリングが使われていてね。K1はメタルだったんですよ。コンロッドも全部メタルだったの。抵抗が大きいから回転上がんなくてね。そのせいで白バイのクランクが欠けたことがあったんですよ。でもK2は全部ベアリングなんですよ。だから回転が上がるんですよ。K1とは全然違うの。白バイはK2までメグロを使ったんですよ。1960年だったかな。スピードも加速もみんなよくなっちゃったんだよね。故障はないし、回転は上がるし、乗り心地もよかったね」

奇しくもカワサキとメグロの合作が最高傑作だったと語る関沢。当時のカワサキの技術レベルの高さをうかがわせるコメントである。

プロフィール・関沢春男

栃木県のカワサキ正規取扱店・宇都宮メグロ(現カワサキ プラザ宇都宮インターパーク)の2代目で、現在は3代目に社長職をゆずる。その店名から古いメグロを持ちこむお客さんもいて、そんなときにも大いに活躍する




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