ヨシムラ
その現場にいたからこそ、わかる事実がある。忘れ去られつつあるカワサキの創成期に新たな時代を築くために闘った男たちの熱き想い。混沌とした時代に突入した今こそ、その想いを受け止めるときであろう。今回はカワサキ単車部門存続の危機に立ち会った松本博之氏に話をうかがった。
時代遅れだった初期の自社設計エンジン
松本氏がカワサキに入社したのは昭和27年3月1日。通常4月1日が入社日であるはずなのに、1ヶ月前倒しての入社だった。
「当時、朝鮮特需の影響もありカワサキも人手不足でした。私も採用試験に受かった時点で、アルバイトで来てくれということになったんです。それで2月から会社に行くようになり、設計の“せ”の字もわからないときに青焼きという図面を焼いたものの整理など手伝いましたよ。さらに入社も1ヶ月早まったんです」
カワサキというと船や列車といった重工業のイメージが強いが、松本氏が最初に手がけたのはなんと消化器関連だった。その他にもタイプライターも作っていたりと、当時社会が混沌としていたこともあり、カワサキもいろいろなモノを手がけていたのである。
松本氏が入社して1年経つか経たないころ、自転車にエンジンを装着したバイクの生産を神戸製作所(現在の明石工場)で行なうことが決定された。
「それまでは播州歯車工場で生産していたんですが、それを神戸製作所に引き上げることになったんです。それが昭和28年の春ころでした。当時の設計係長から『お前はなにをやりたい?』と聞かれたので『動くものがいいです』と答えたこともあって、単車部門に配属されたんです。当時は係長一人、担当は私一人という小さな部署でした(笑)」
当初エンジンの基本設計は、本社である川崎機械(戦後川崎航空機は解体され川崎機械となる。昭和29年2月、川崎航空機として復活)が行なっていた。最初の自社製エンジンKB-1型は、ピストンにデフレクターが付いており、松本氏が調べてみると思想がすごく古いものだった。それは“ただ回るエンジンを作っただけ”という感じだったそうだ。
松本氏自身が初めて設計を手がけたのは、KB-1型が生産され始めた約2年後に登場するKB-3型である。神戸製作所で設計から手がけた初めてのエンジンで、この製品からピストンのデフレクターが取り払われている。
またこのころにヒカリ自転車から独立して、メイハツというオートバイ販売会社ができたのである。
「東京・御徒町にあったメイハツの営業所へ、できて早々にエンジンを抱えて行ったことがありますよ。マフラーなど付属のパーツまで合わせるとけっこうな大きさでした。それを当時クルマなんて普及していなかったから夜行列車で運んだんです。乗客が多くてデッキに立ちっぱなしで行ったんですが、熱海でさすがにしんどくなって快速電車に乗り換えたのを覚えてますよ」と松本氏は当時の状況を振り返る。
また、KB-3型エンジンの設計の話が自分のところに来たとき松本氏は、やっと設計できるようになったのかと思ったそうだ。そのころ仕事とは別に、自身で機械工学の書物を買って、独学でいろいろと勉強しながら日々を送っていた。
そのまま神戸製作所にすべてがまかせられるかと思いきや、KB-3型に続いて開発されたKB-5型では、ふたたび設計は本社、すなわち川崎航空機で行なわれることとなった。ここで4が飛んだことを?と思われる方もいるだろうが、これは縁起をかついでのことだったそうだ(4=死というヤツである)。
需要に見合った車両がカワサキの活路を開く
当時単車部門は思うような成果を上げられず、さらに採算は悪化する一方だった。そして、先行きが不安な部署から人は離れていった。しかし、松本氏は単車部門にこだわり続けた。
「単車のエンジンがおもしろいということもありましたし、どちらかというと趣味もかねていたという…(笑)。さらに上司が他部署に移って行き、自分の思いどおりになることが増えてきたんです。新しい上司が移動してきても、現場のことがよくわからないから、逆にまかされることがほとんどでした」
そして、松本氏に再びエンジンを設計するチャンスが訪れる。KB-5型に続くKB-6型の設計であった。このエンジンはすべてが自分の思うとおりにできたそうだ。若干23歳のときのことである。
その後も、新しいモデルを市場投入するものの、一向に状況はよくならず単車部門の存続が危ぶまれる状態へとおちいっていた。そんななか、限定生産5,000台で最後の一機種として開発されたのがB8であった。“なんとしても売れるモノを作らなければ…”。設計する前に市場調査をさせてほしいと松本氏は願い出た。そして許可が下りると東北と北海道を1ヶ月かけて回ったのである。25歳のことである。なぜ東北と北海道だったのか、それにはもちろん理由がある。
「メイハツの売れ筋が東北と北海道だったんです。ほとんど他では売れていなかった。だから生の声、どういう使われ方をしているのかを知りたくて、販売店を片っ端から回って行ったんです。それでわかったことは、東北・北海道ではほとんど運搬車として使われていたということ。荷物を積んで走るだけで、遊びに使うような人はいないということなんですよ。要するに実用車。
これはやばいなぁと思いましたよ。というのはKB-6までは、他のメーカーよりパワーの出るモノを作ろうという、ある種の技術競争みたいな部分があったんです。そんな車両では実際に使ってくれているユーザーにはよくないわけですよ。本当に必要なのは丈夫で粘り強いエンジン。それで発想をコロっと変えてB8の設計をしたんです。中低速の強い車両ということで、クランクのフライホイールウェイトを重くしたんです。要するに慣性モーメントを上げないと当時の舗装されていない凸凹道に追随できなかったのです。具体的にはクランクシャフトのウェイトの径をものすごく大きくしたりしたんです。その結果、低速が安定して低中速がよくなったんです」
余談ではあるが、調査から帰ってくると、多くの人が異動していて単車部門にはほとんど誰もいなかったそうだ。
生産台数が5,000台と決められていたため、当然ながら新たな投資はできない。そのためエンジン製作にあたって鋳造用の金型もおこすことができず、砂型のまま量産に入った。ただ従来砂型を作る際、その型を作るために木型を用いるのだが、数を持たせるために、このときはアルミの型を作ったそうである。
また、人件費もほとんどかけられないため、松本氏が実験などもかけ持ちでやらざるを得なかった。
「神戸製作所から高槻までを往復したことがあるんですが、砂利道ばっかりでそれは大変でしたよ。ただし、自分で乗るから、自身でセッティングもできたんです。それはそれでよかったと思いますよ」
通常どんな分野でも新しい製品が完成すれば、新聞や雑誌に広告を打つなどの大々的な宣伝活動が行なわれるが、このときはそういった活動もほとんど行なわれなかったと松本氏は振り返る。
「もう単車はやめるとほぼ決まっていたので、車両の宣伝すらしなかったんですよ。せいぜい発表会というかたちで代理店をちょこちょこは回りましたけどね。それが唯一の宣伝活動でした。ところが最初の1,000台を作り終えて出荷したころに、ものすごいバックオーダーが舞い込んできた。限定5,000台どころじゃなくなってしまったんです。きっと運搬車としての実用性がよかったこと、それが受け入れられたんだと思います」
当時常務取締役で神戸製作所の所長を務めていた山本福三氏は、「これだけの注文が来ていたら止めるわけにはいかない」と、日本能率協会に、今後単車部門をどうすべきか調査を依頼したのである。その回答は、“単車は将来性があるから、続けた方がいい”というものだった。これらによって状況は変わり、単車部門からの撤退は白紙化されたのである。
「存続が決まって、エンジンは金型による鋳造(ダイキャスト)になったんですよ。また当初は東北・北海道で売れ出したんですが、その評判は全国に広がっていき、B8は全国的に受け入れられたんです」
このB8成功を受けて、新たな製品としてモペットM5の開発も始まるのである。また同時にB8だけでは販売に限界があるため、さらに売れる製品としてB8をベースに排気量アップしたモデルやオフロードモデルなども開発されることになる。そして、その開発に松本氏はたずさわっていくのだった。
「実用車だったのでいろいろな部分に大きく余裕を持って作っていたから、ストロークアップは意外とラクにできたんですよ。ほとんど手を加えることなくボアアップしたりもできたんです。だから後になっていわれましたよ。『お前の設計はいったい何ccまで排気量が上がるねん!?』と(笑)」
そして、この同じエンジンを使用して排気量を上げるバージョンアップは、その後、誰もが名車と認めるZ1、Z650、ZZR1100でも行なわれ、まるでカワサキのお家芸的な手法になっていくのであった。
いずれにしろ、B8の成功がなければ、現在我々を楽しませてくれているカワサキのバイクたちは存在しなかったのである。それゆえ、B8こそが今のカワサキの原点だといっても過言ではないだろう。
プロフィール・松本博之
1934年1月18日生、兵庫県神戸出身。20歳のとき、川崎航空機工業(現・川崎重工業)入社。カワサキがバイクを作り始めたときからを知る貴重な存在。技術屋の見本ともいわれ、エンジン開発の重鎮。そのキャリアは他を圧倒