ヨシムラ
そして、サムライが…
編集部
そうこうしているうちに、2ストロークの250cc・2気筒のA1を作ろうっていう話になったんですよね? しかも、B8のとき、松本さんが一人で東北、北海道を回ったように、今度は百合草さんが一人でアメリカへ行ったんですね?
百合草
テストのために行きました。もちろん、テストを兼ねて市場調査もやってきました。ようするに、このまま日本市場だけでは飯は食えないと。アメリカでなんとかしよう!!ってことで。じゃあアメリカ向きのオートバイをやろうってことでA1を開発して。だけどこれが、いいか、悪いかわからなかったんです。当時、関係者はだれ1人、アメリカのことを知らなかった。そこで、私がアメリカへ飛ばされた(笑)。アメリカ向きの製品だから、どんな仕様にしたらいいのか、それを決めてこい!ということで、1人で行かされたんですよ。カワサキは全然お金なかったから(笑)。
編集部
そして、B8のときと同様、多くの苦労を乗り越えて、ツインロータリーディスクバルブの、カワサキらしいといったら変ですが、パンチのあるバイク、A1が66年にデビューしたわけですね。ところで、サムライ(A1のアメリカネーム)の名はだれがつけたんですか?
百合草
ニックネームを付けるってことで、社内に告知したら、若いセールスマンが「サムライは?」と。で、これが通ったんです。
編集部
百合草さんがアメリカに行っていたとき、松本さんは?
松本
A1の設計で頭がいっぱいでした(笑)。
編集部
そして、見事にA1はアメリカで大人気となり、翌年には350ccのA7(アベンジャー)も発表。さらにアメリカでレースを戦うA1Rと矢継ぎ早に新型を登場させ、さらに500ccのマッハⅢ(H1)、750ccのマッハ750SS(H2)と、このときは怒とうの勢いでしたね。国内外ともに。そしてさらに、4ストローク900ccのZ1へと。
百合草
当時はさらにニューヨーク仕様のH3プランというのもありました。出さなかったですけどね。それと、マッハⅢはもともと輸出専用だった。だから、国内向けに売るつもりは全然なかった(笑)。
編集部
でも売りましたよね?
百合草
売りました。みなさんがキャッキャ騒ぐので(笑)。
編集部
H1とかH2とかの2ストロークエンジンはもちろん、松本さんが全部設計したんですよね。
松本
そうですね。
編集部
Z1もですか?
松本
一部ですね。
百合草
それはそうと、A1がアメリカで成功したおかげで販売網が成り立ち、マッハが出て販売網が安定しましたね。そして、Z(1)のころにはかなり安定してました。だから、Z(1)は非常に幸せなバイクだと思います(笑)。
編集部
それと、当時、メグロを傘下に入れた時代の思い出とかありますか?
百合草
メグロの500cc(スタミナK2)をボアアップして、650のW1をアメリカに送り出したものの、電装品が全部壊れたなんて(笑)。バイブレーションで(笑)。そんな苦い経験もありましたね。それと、当時私は、メグロのSG(250cc)のテストばっかりで、あのエンジンを全部明石に持ってきて、4ストロークのエンジンの実験ばっかりやっていたんですよ。ですから、そのときから4ストロークのエンジングループっていうのはいたわけですよ。当時は360ccの軽自動車のエンジンも設計しました。AZって名前まで付いていたんですが、世に出なかったですね。
編集部
でも、あの時代、軽自動車ブームが来ましたよね? やってればおもしろかったですね?
百合草
それは、おもしろいか、会社がつぶれちゃうか、どっちかだったでしょうね(笑)。
編集部
それと、話がそれてしまうんですが、かつてスクーターを出しましたよね?
松本
KB2型の60ccのエンジンを積んでスクーターをやってました。
編集部
その後はスクーターの話は浮上しなかったのですか?
百合草
まぁ、話には出てはいましたが、そこまで手が回らなかったですね〜。それと、50ccのモペットも含め、一番の問題は販売網がなかったことですね。
編集部
ありがとうございました。